ABOUT

狸谷山不動院について

狸谷山不動院縁起

東海道最後の難所である日ノ岡峠の改修や渋谷街道の急坂改善などの社会事業を行ったことで知られる朋厚房正禅法師〈木食正禅養阿上人・貞享4年(1687)~宝暦13年(1763)〉は、若くして禅、律、真言、天台の四宗の要義を学び、また木食行を体得するため高野山に登った。そしてさらなる高みを目指して参籠修行の場を探し求めていた。

狸谷を拠点とした参籠、
木食行は困難を極めた。
そのさなかには熊野詣の難行苦行もあり、
ついには熊野権現が山伏の尊形となって
現れ、鉦、鐘木、杖の
三種の神宝を授かった。
こうして狸谷山修験道が誕生したのである。
法力を得た朋厚法師は
狸谷山修験道のご本尊として
新たに自ら刻んだ身の丈五尺の
石造不動尊像を据えた。
その尊容はかつて桓武天皇が
平安京の城郭東北隅に鬼門守護として
祭祀されたタヌキ(咤怒鬼)不動明王と
同じといわれ、伝説の咤怒鬼不動明王が
息を吹き返したと村人は歓喜し
信仰の拠り所となっていった。
その後、修行場として各地から
参籠者が馳せ参じ大きな繁栄を見せ、
狸谷山修験道の礎を築いた
朋厚法師の参籠は足かけ十七年にも及んだ。

それから時は流れ、社会の変遷、為政者の干渉などもあり、明治の廃仏毀釈では残念なことに霊仏が草深く埋もれると云う嘆かわしい事態を招き、次第に荒廃してしまう地域が相次いだ。

時あたかも人心の低迷した戦後、
勇気と活力を与え給うご本尊のご威徳は、
愈々遍満し、祈りある者、
必ず救われるの霊験宣布により、
"タヌキダニのお不動さん"の御名が
天下に響きわたり、
関西隋一の信仰霊場として、
大躍進が続けられたのである。
ご本尊咤怒鬼不動明王の大威神力は、
帰依する者の左右を離れず、
衆生の願いに随って利益を与え給うの
本誓を発揮して、縦横無尽に
衆生を済度するのである。